2011年3月11日 午後2時46分。
東北地方を未曾有の大地震が襲いました。
当時、私は社会人1年生。
まだ会社員として1年経っていないくらいに被災しました。
たまたま、私は生き延びれたのだと思います。
つまり、運が良かった。
なぜなら、備えもなければ油断もしていたからです。
災害大国日本。
このような大災害は起きてほしくはないですが、もし起きた時のために備えておくことは大事です。
東日本大震災から10年以上経過した今、改めて当時を振り返り、得た教訓を書いていこうと思います。
※東日本大震災当時のショッキングな表現がありますので、苦手な方は閲覧を控えてください。
大震災の被害と衝撃
午後3時よりちょっと前でした。
当時の職場は3月が繁忙期だったので、私も忙しく仕事をしていました。
すると、なにやら地響きが聞こえてくるではないですか。
数日前もそのような感じで若干大きい地震が来て、雰囲気の割には大して大きくはなかったので油断していました。
グラグラ!グラグラ!
と今まで経験したことのないような揺れに襲われました。
当時私は倉庫での作業をしていたので、体育館の照明のような高い天井にある大きな照明がグラグラ揺れているのを見て、とっさに机の下に潜りました。
それでも全然収まる気配がありません。
「外に出るぞ!!」
職場の人の掛け声で私も一目散に外へ逃げました。
幸い、建物は倒壊を免れ、職場の人も誰一人怪我をせずに無事でした。
ただ、本当の地獄はこれからでした。
そう、津波が街を飲み込んでしまったのです。
その津波がもたらした被害は、皆さんが周知の通りです。
大きな地震は大したことがなく、津波こそが最大の被害をもたらした元凶でした。
そこからの体験がとにかく凄まじかったです。
そこで今回は、この震災で得た教訓を私の実体験を元に書いていきたいと思います。
東日本大震災を経て私が得た教訓
油断大敵
ひとつ目はこれです。
「油断大敵」
「こんな大きな地震が来てるのに普通油断するかよ」
と思うかも知れません。
でも油断してしまったのです。
私たちが油断していたのは「地震」ではなく「津波」でした。
今でこそ沿岸部で地震が発生すると津波が来る!と津波の危険性について知られるようになりましたが、実際東日本大震災前に大きな津波があったのは、1960年のチリ地震大津波。
実際に体験している人は若い人では少なかったです。
それに加え、チリ地震ではこなかった場所も今回の東日本大震災では津波が到達しました。
そのため、チリ地震の経験者はかえって「ここまではこなかった」という記憶が邪魔をし、
油断しておりました。
まさに、私の職場でもご年配の方が「前もここまでこなかったので大丈夫だ」
と言っておりまして、私も安心しきっていました。
でも、津波が来たのです。
なぜ私が助かったのかというと、たまたま職場が高台だったから。
たったそれだけの理由です。
私はその高台にいてもなお、さらに高い場所へ逃げました。
そのくらいの勢いで津波は迫ってきました。
臨機応変
ふたつ目は「臨機応変」です。
避難所だから、高台だから安全ではありません。
常に状況を把握して、臨機応変に安全なところへ避難することが大事です。
岩手県陸前高田市の市民体育館では、市の避難所に指定されていたにも関わらず津波に飲まれ、推定100人の避難者のうち3名しか生存者がいませんでした。
「チリ地震の時も津波は線路(JR大船渡線)までしか来なかったと聞いていたから『体育館2階に逃げれば大丈夫』というのが近隣住民の認識だった」
引用:https://ameblo.jp/yume–zuki/entry-11042165629.html
市によると、51年前に市を襲ったチリ地震津波の高さは5・5メートルで、これを基準に防潮堤を築いた。しかし、震災後に現地調査した東京海洋大の岡安章夫教授(海岸工学)によると、体育館を襲った津波の高さは壁の痕跡などから推定15・8メートルだった。4月11日、戸羽太市長が言った。「災害は想定しちゃいけない。常に最悪の事態を考えないと、大変なことになる」
引用:https://ameblo.jp/yume–zuki/entry-11042165629.html
東日本大震災では、原発の「安全神話」も崩壊しました。
自然というのは、我々の想像を超えてくるものです。
常に最悪の事態を考えて、「ここなら大丈夫だろう」とは考えずに臨機応変に行動しましょう。
その行動が生死を分けます。
私の場合、会社にいた時に地震がおき、たまたま高台だったのでそのまま会社にいることもできましたが、人が多く集まっている避難所の方が支援物資も届きやすいだろうという判断で、近くの大きな避難所(中学校)に避難しました。
備えあれば憂いなし
とはいえ、やはり未曾有の災害に見舞われたらパニックになるのが人間の心情。
「備えあれば憂いなし」です。
ということで常に「万が一」災害が起こった時に備えて準備しておきましょう。
自分の自宅付近の避難所や職場の避難所を確認したり、非常食の準備をしたりです。
また、家族の避難先もあらかじめ互いに話し合っておくことも重要です。
(回線が混んでいたり、停電で連絡がつかない時に、あらかじめ話し合って決めた場所が待ち合わせ場所指定となり、家族を見つけやすくなります)
できれば非常用持ち出し袋や食料品の備蓄があるのが望ましいです。
下記リンクを参考にしてみてください。(首相官邸のHPです。)
https://www.kantei.go.jp/jp/headline/bousai/sonae.html
経験してわかった、震災時に本当に必要だったもの
私の実体験から、震災時に「これがあって助かった」というものを紹介していきます。
私の場合地震で被災しましたが、台風、火災など、災害の種類によっても必要になってくるものは変わってくると思いますので、あくまで今回は東日本大震災を経験した私の実体験を元に紹介していきます。
代わりに「これがなくて困った」というのも紹介します。
東日本大震災の時に「あって助かった」もの
- 反射式石油ストーブ
- ラジオ
- 自転車
東日本大震災の時は東北の3月ということもあり、雪がまだちらつくとても寒い日だったのを覚えています。
もう少し暖かい日であれば生存者も多かったのではないかとは思います…。
停電もしていたので、その時に暖をとる方法として反射式の反射式石油ストーブが重宝しました。
このストーブは石油ファンヒーターとは違い、灯油があれば点火します。
さらに、ストーブの鉄板の上でヤカンでお湯を沸かしたり、フライパンでちょっとした料理なら作ることができます。
特にオール電化のご家庭などは、大きな災害の場合、電気の復旧に時間がかかるので、万が一に備え灯油と反射式石油ストーブを備えておくと良いかもしれません。
ちなみに下記のデータが東日本大震災で電気復旧までに要した地域別の所要時間です。
他には、定番のラジオが活躍しました。
停電でしたのでテレビはもちろん繋がりませんし、当時の携帯電話(スマホ)も充電がもったいないです。
その時に情報収集として役立つのがラジオです。
ガソリンも購入制限があったのでなかなか買えず、車での移動を控えなければいけなかったので、ある程度道路が綺麗になってからは自転車が重宝されました。
私も職場まで自転車で通っていた時期がありました。(しかし、若かったからよかったものの、かなり大変でした!)
東日本大震災の時に「無くて困った」もの
- 非常食
- 現金
- ガソリン
逆に私たちが無くて困ったものは上記のものです。
被災後、その日のうちに大きな避難所へ避難しましたが、防寒器具や食料品はお子様やお年寄りの方が優先。
実際に配給があったのは翌日のお昼頃でした。
それでもまだ配給があったからよかったものの、場合によっては2日〜3日配給がこないことも想定して水と食料品は備えてた方が賢明です。
また、大きな災害があった場合は、停電をしている確率が高いのでATMが使えず、現金が引き出せません。クレジットカードの読み取りや電子決済も出来ない可能性があるため、キャッシュレスが叫ばれる世の中になりましたが、いくらかの現金は用意していた方がいいです。
被害の軽微な近隣の町の銀行へいくとしても、災害時はガソリンも貴重なので、やはり万が一に備えて現金は確保していた方が何かと安心です。
前述のように、災害時のガソリンは貴重です。
とはいえ、ガソリンは危険物で長期保管をするのは好ましくありません。
私の場合は、車の燃料が半分切ったらこまめに給油する癖がつきました。
小まめに給油して常にガソリンを一定に保つことが万が一の時に役に立ちます。
些細なことかもしれませんが、万が一の時はこの小さい差が明暗を分けます。
ということで、今回は東日本大震災を実際に体験した私が、当時を振り返り、この震災から得た教訓を大まかに書きました。
ぜひ参考にしてみてください。
別ブログになりますが、より詳しく地震の時はどうしたらいいかというのを書いた記事もありますので、もしよければ合わせてご覧ください。
https://colorful-life.net/no-worries-if-prepared/
以上、東日本大震災からの教訓でした。