「古臭い」ってすんごい悪口だと思うんですよ。
だって、「古い」+「臭い」ですよ。
どっちか一つだけ言われたって凹むのに、それを組み合わせてくる。
かけ合わさって相乗効果でとんでもない威力になってる。
もうちょっとなんかいい表現なかったんですかね。
とはいえ、古いものってなんか臭いイメージもあるし
……案外、言い得て妙なのが悔しい…。
でも、ちょっとだけ可哀想な感じもします。
だって、「それ古臭いよね」って言われたらめっちゃショックですよね。
よくよく言葉の意味を考えてみたらとんでもない悪口ですよ(笑)
時代遅れで腐ってるよって言われてるようなもんじゃないですか(笑)
突然なんでそんなことを言い出したかというと、「古臭い」ものが好きなんですよね。私。
子どもの頃からゴッホとかモネとかムンクとかミレーの絵が好きでしたし、音楽でいえばクラシック、特にベートーベンが好きで、そして遊戯王をきっかけに古代エジプトへ興味を持ちました。
最近では案の定、懐古厨になってしまって、デジモンは初期のシリーズしか認めないし、遊戯王カードも初期のデザインの方が好きだし、iPhoneもiPhone4が至高だと思っています。
でも、最近は新しいものを追っている。
斬新で、まだ誰もみたことのないアイデアで、ありきたりじゃない作品を作ろうとしている。
自分の中にある違和感の正体はこれなのかもしれない。
本当はゴッホやムンクのような絵が描きたいのかもしれない。
ただ、「憧れるのをやめない」限り、巨匠たちを超えることはできないでしょう。
……いや、そもそも私は巨匠たちを超えたいのでしょうか。
大谷選手の、とうに旬が過ぎ去った名言を引っ張り出して自分の古臭さを証明したところでなんですが、そんな大それたことは1ミリも考えていません。いくらビッグマウスでも、さすがにそこまでは言いません。
でも、言語化が難しいのですが、憧れた画家たちのような絵を描いてみたいなとふと思ったり。
今までは「それじゃあ超絶劣化版のゴッホ風の作品」が出来上がるだけ、と思っていましたがやはり憧れには勝てません。
それに「学ぶ」という語句は、まねるという意味を持つ「まねぶ」と同じ語源と聞いたことがあります。
今こそ原点に立ち返って、幼少期のようにただただ自分の書きたいように描くべきではないか、と最近思ってきました。
夢は夢のままで
そして、憧れとの距離についても、少し考えます。
こんなことを言うと変かもしれませんが、私が憧れた画家たちが、すでに亡くなっている人でよかったと思うことがあるのです。
もし存命ならきっと会いたくなるでしょう。
でも、いざ会って「邪魔だから早く帰れ!」なんて言われたらどうでしょうか。
こっちもムッとして、言い返して、まさかのケンカにでもなったら……その後も変わらずリスペクトし続けられる自信がありません。
作品が好きなことと、本人と気が合うことは別ですからね。
会えないからこそ、作品を通して自分なりの憧れを大切にできる。
やはり、憧れは憧れのままの方がいいのかも知れません。
懐かしさの正体
それに、人間って不思議なもので、そのものの価値って、どうしても無くしたあとじゃないと気づかないような設計になってるように思うのです。
当たり前にそこにあるうちは、わざわざ大切だなんて考えない。
ところが、もう手に入らない、もう会えない、もう戻れない、となった途端に、急にかけがえのないものに見えてくる。
昔遊んだゲームも、聴いていた音楽も、その頃は別に「懐かしくていいもの」ではありませんでした。ただ、そのとき好きで、夢中になっていただけです。
でも、今になって触れると、作品だけでなく、それを楽しんでいた頃の自分まで思い出します。
遊戯王の昔のカードを手に取れば、カードのデザインだけでなく、友達と遊んでいた時間まで懐かしくなる。
もしかすると、私が好きなのは「古いもの」だけではなく、そこにくっついている、もう戻れない時間なのかもしれません。
Phantom
私は、残された作品に触れることは芸術家たちとの「対話」だと思っています。
その時、画家や音楽家たちは何を感じ、何を考え、何を残そうとしたのか。
そんなことを想像していると、作品を通じて、彼らが生きていた時代へ旅をしているような気分になります。
ただ、その景色にはいつもモヤがかかっている。
本当にタイムマシンでも発明しない限り、芸術家たちの真相はわかりません。
だから名画の解釈も人それぞれでいいと思うし、それはクラシック音楽でもそうだと思います。
フェルメールの『真珠の耳飾りの少女』が来日して世間を賑わせましたが、今は黒っぽく見える背景にも、もともとは緑色のカーテンが描かれていたことが科学的な調査でわかっています。絵の具が長い年月をかけて変化し、その姿が見えにくくなっていたのだそうです。
同じくフェルメール作品の『窓辺で手紙を読む女』は、背景の余白が静寂な空気感を感じさせ、作中の女性が読んでいる手紙はなんなのか、そこを見る人に想像させる名画だなと解釈されていたところ、その余白を生んでいた壁に大きなキューピッドが姿を現したのです。
「何の手紙を読んでいるんだろう」と想像していたら、背景には愛の神様。なるほど、恋文というわけですか。思ったより直球です。
ベートーヴェンの『月光ソナタ』も、「月光」と名付けたのは本人ではありません。後世の人が、その音楽に月夜の景色を重ねたことから広まった呼び名です。
でも、「月光」と聞いてから曲を聴くと、なんとなく月明かりを思い浮かべてしまう。少なくとも私はそうです。
歴史上存在していた人物である以上、真実の歴史もあるのでしょうが、過去に戻れない以上、我々未来人は確かめようがないわけです。ある意味、そこが「ロマン」なのです。
でも、残された作品たちが、巨匠たちは確かに実在していて、どういう人物だったのか、その輪郭までは伝えてくれています。
残念ながら、ベートーベンが生きていた当時の演奏は聴くことはできません。
名画だって、大切に保存されて必要な修復を受けていても、色が変わったり、ひび割れたりしています。
それでも、音楽は残された楽譜を通じて、今を生きる演奏家の手で再び鳴り響きます。
絵画だって、描いた人はもういなくても、その人が重ねた絵の具の色や筆の跡は、今もそこに残っています。
フェルメールの『真珠の耳飾りの少女』の青いターバンには、ラピスラズリという宝石から作られた青色顔料「天然ウルトラマリン」が使われています。
遠く、現在のアフガニスタンにあたる地域で採れたラピスラズリ。
それを手間と時間をかけて顔料にしたもので、当時は金よりも貴重だったといわれるほどの高級品でした。
フェルメールは、この青にいったい何を託したのでしょうか。
本物の絵は何かを訴えかけているような、魂がこもっているような気がしてなりません。
勘違いしないで欲しいのは、私は霊感なども全くありませんし、オカルトマニアでもありません。
でも、本物の名画と対峙した時にはそう思わざるを得ない気迫があります。
いつの日か、自分もそのような作品を後世に残すことができたらなと思っています。