この間紅葉を見に行ってきました。
私はこの紅葉の季節、秋が四季の中で一番好き。
その中でも西日がさす夕暮れが好きです。
共通点は、黄色味がかっていること。
私がただ単に黄色が好きなだけかも知れません。
しかし、いわゆる一般的な「黄色のイメージ」とはまた違う「イメージの黄色」であり、そこが好きなのかも知れません。
夕焼けの「暖色」は普通の「暖色」がもつイメージとは違う
一般的に黄色は元気の色、活発的な色です。
同様に紅葉、夕暮れの雰囲気の色として、赤がありますが、
赤も一般的には情熱とか、熱気というように、同じようなイメージがあります。
しかし、秋や1日の終わりを連想させるような「夕暮れ」にはそのようなイメージがありません。
どちらかというと、秋、夕暮れどちらも「終わりに近く」「静けさ」「哀愁」というようなネガティブなイメージがあります。
「静けさ」「哀愁」という意味では私に近いのは秋、夕暮れであり、親近感を感じています。
毎年秋になると感傷的な気分になります。「赤い色味」が気分を高揚させるのでしょうか。
こうして風景を見てたそがれている時は今までの人生を振り返ることのできる、貴重な時間です。
普段は毎日を生きるので忙しく、過ぎ去った過去のことを振り返る余裕すらありません。
しかし、秋の静けさの前では、自然とリラックスでき、自然と過去のことを思い出させてくれます。
クリエイターには必須である「余裕」
クリエイターには「余裕」が必要だと思っています。
「余裕」というのは時間的な余裕であったり、「心」の余裕であったり。
「効率」ばかり求められる現代社会ですが、「無駄」と思えるようなことも時には必要で、
一見すると「無駄」と思えることも「創造の種」だったりすると私は考えています。
さらに、「無駄」な時間こそが「意味のある」時間であるとさえ思っています。
何でもかんでも「効率」ばかり求めると身が詰まってしまいます。
例えば、効率よく睡眠して、効率よく食事し、効率よく仕事する。
一見すると理想のようですが、それは果たして
楽しいことなのでしょうか。
さらに、そこには無駄な思考を働かせる余地すらありません。
そして何のために生きているのか、その意義を見出せず苦悩することでしょう。
通学路はまるでRPGゲームのように
私は子供の頃、徒歩で学校に通学していました。
通学路ではいろんなことを考えながら通学したのを覚えています。
歩道と車道の間にあるブロックを平均台の上のように歩きながら、サーカス団で演技をしているような妄想をしてみたり、冬にはきれいに透明に凍った氷を見て感動したり、長いツララを見つけて、伝説の剣を探すというストーリを作ってみたり。
幼かったので今と比べて感受性が豊かだっただけかも知れません。
しかし、サラリーマン時代は車での通勤、風景をゆっくりと眺めながらの通勤はできません。
効率は良くなったのでしょうが、時間にいつも追われているような気がして、今の生活はあまり理想ではありません。
お金はほどほどあればいいかなぁ、と今になって思います。
お金より、そういう昔のような時間的な余裕が欲しいです。
バイトをしながらゆるく暮らそうといつも思っています。
ド田舎の現実
ですが、田舎にいると私のように若く(田舎では40、50歳でも若手です)、バカ正直でバカ真面目な奴は重宝されるのです。
それは安く、従順な労働力だからです。
嫌なら抜け出せばいいのですが、いや、そうやって若者が抜け出してきたから今の田舎の過疎が深刻化しているのでしょう。
私が田舎から抜け出さないのは、単なる逆張りです。基本他人と同じことをするのが嫌いなだけです。
だからある意味自己責任なのかも。
幸い、ネットがあるおかげで田舎にいながらも大抵のことは都会に行かなくともできるようになりました。
唯一イベント事だけは都会でなければできなかったのですが、このコロナ禍のおかげで「オンライン〜」が流行り、それも解決できそうです。
昨今は「メタバース」という仮想空間が流行っていますが、もはや都会とか、田舎とか、気にすることもない時代になっていくんだろうなと思います。っていうか、そうなって欲しい。
そうすることで私が田舎に住む理由になるから(笑
そんな、過去の振り返りと現在地点の確認、未来への願望と、
いろんなことを考えた紅葉観光でした。
この記事を書いているうちにもうあたりが暗くなってきました。
最近夕暮れが早くなってきました。
私の短い休みも夕日のように終わりを迎えようとしています。
現実逃避ももう終わり。
夕焼け空が暗闇に変わり、やがて朝日が昇ります。
朝起きたら今度は反対に、昨日までと同じように、現実の日常が待ち受けているのでしょう。