私のその後の生き方を変えてしまった、大きな大きな出来事
なんだかんだあった社会人生活も1年を迎えようとしていた時期、ある大きな出来事に巻き込まれます。
そう、東日本大震災です。
職場は沿岸地域でしたが、海からは約5km離れており、かつ高台にありましたので大きな被害自体はありませんでした。
この大きな地震は私の人生観も大きく変えました。
あの時、私は何を考え、どう行動したか、詳細は別の記事にまとめました。
※ショッキングな表現がありますので、苦手な方はご遠慮ください。
東日本大震災を経て、会社も存続の危機に瀕していましたが、解雇者を出さず、復興に向け従業員一同が震災前よりもさらに団結を深めていったような気がします。
とはいえ、1ヶ月後、2ヶ月後でさえ主要道路も瓦礫で埋め尽くされ、仕事はおろか、普通の生活さえままならない人たちが大勢いたのも事実。
当時、みんな必死でした。
家族がいる人は家族を守るため。会社は雇用を守るため。役所の人は市民を守るため。自衛隊の人たちは壊滅状態だったこの街を元の姿に戻すため。
被害が軽微だった私は、何か申し訳なくて、せめて会社の役に立とうと必死に仕事をしました。
当時、ガソリンが中々手に入らず、私の車も次第にガソリンがなくなってしまったので、
会社まで自転車で通勤したこともありました。
往復30kmの距離です。
電気も復旧してない時期でしたので、発電機で灯したわずかな光を元に倉庫でピッキングしました。
そんなこんなでこの危機的な状況を脱しました。
金銭的な余裕が出てきた社会人生活2年目
大震災という大きなハプニングに見舞われたものの、なんとか社会人生活2年目がスタートし、
すっかり仕事にも慣れ、爪に火を灯すような節約生活のおかげで大分蓄えができ、精神的にはかなり安定するようになっていきました。
そして夏頃、初めての高額な買い物をします。
パソコンを買ったのです。
私が初めてのパソコンに選んだのは、そう、Macです。
それからはもうAppleの虜になってしまい、今では立派なアップル信者となりました。
ライフワークバランスがよく、充実していた社会人2年目
震災の影響で会社の仕事量も大幅に減少していたのか、この年は残業も少なく、
ワークライフバランスだけ見ると、この時がちょうどよかったです。
会社としてみれば売上が大幅に減り、大変だったのかも知れませんが…。
ゴールデンウィークになる前には電気も復旧し、徐々にではありましたが会社も通常業務に戻っていきました。
と、そんな感じで2年目も終わり、いよいよ3年目に突入。
しかし、またもや試練が待っておりました…。
社会人3年目の試練
3年目は昨年の震災の影響で大幅に落ちた売上を回復させようと、工場はフル回転でした。
これは仕方ないのかも知れませんが、残業、休日出勤の嵐…。
一時的なものとはいえ、ワークライフバランスがよかった昨年とは雲泥の差。
さらに、激務で辞める人が続出。
人員不足で一人当たりの仕事量が増加→さらに激務に→人が辞める(以下ループ)という悪循環に…。
本社の営業の人が数人手伝いに来るという非常事態。
でも、入社した時点で3年は続けると決意していたので何とか踏ん張りました…。
3年目は仕事をしていたという記憶しかないです…。
社会人生活4年目の大きな決断
社会人生活4年目。私は大きな決断をしました。
そう、会社を辞めるのです。
とはいえ、人手不足もあり、すぐには辞められずに8月頃に退職しました。
この時の爽快感と希望に満ち溢れた気分は、今思い返してもとても良かったなと思います。
辞めてからは、好きな絵を描いたり、友達と遊んだり、一人旅をしたり、図書館で本を読んだり、1ヶ月程度リフレッシュしました。
学費もある程度貯まり、さてどうしようかと。
でも、ここでも私は勇気を出すことができませんでした。
「新しい一歩」が中々踏み出せない
思い切って東京に出てみたり、大学入試に挑戦してみたりなどすれば良かったのでしょうけども、
いまいち新しい一歩が踏み出せませんでした。
卒業後のイメージを掴めなかったからでしょうか…。
その時は社会人として働くということに嫌気が差していました。
「やはり、自分には絵の道しかない。絵を描いて絵を売って生活できれば煩わしい人間関係も、仕事量も休みも自分で管理できる」
「でも、それをどうやって達成する?絵を売って生活するのはそんなに簡単じゃないよな…」
「商業的な絵であれば仕事をもらいやすいかも知れない、そうだ、デザイナーとして生活する分は稼げばいいのでは?」
そんな楽観的な考えで「未経験OK」というデザイン職の仕事に非正規でお試し入社して見ることにしました。
社会人編ー③へ続く↓↓↓